今週も早いものですでに日曜日。土日は子どもの野球とピアノで一瞬で終わろうとしております。
そんな中、今週水曜日のクソすばは、「高度の政治性を有する」国家行為は「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」と判示して「統治行為論」を確立したいわゆる砂川事件を入り口に、「統治行為論」に流れる表裏一体をなす二つの主題から、今まで見落とされてきた視点についてお話しました。
堀さんからのサプライズもありの、盛沢山配信でした!
この『”憲法の番人の番人”の物語』の着想のきっかけはその前週の細谷雄一先生(慶大)の『リベラルな国際秩序から憲法を語る』で、憲法前文や9条が本来基底的に有していた「平和主義」と「国際主義」のうち、戦後平和主義の過剰な協調により「国際主義」が欠如し、(憲法の価値を称揚する「リベラル」や「左翼」こそ)日本が「世界で起きていることを見ない平和主義」「一国平和主義」に陥っているとの指摘から着想を得ました。
砂川事件は、そもそも”生まれ”がいわくつき。
1959年3月、一審のいわゆる「伊達判決」は、9条の想定した国際主義は国連が「最低線」であり、駐留米軍は「違憲」であると判示。これに焦った政府は、ウルトラCの跳躍上告で最高裁に事件係属。
1959年12月、一審から9カ月という異例・異常のスピードで、最高裁(田中耕太郎裁判長)駐留米軍は合憲であり、しかも、高度に政治性を有する国家行為は「一見極めて明白に違憲無効」の場合以外は司法審査の外にあるとの判断で一審をひっくり返しました。最高裁は、国連と日米同盟を我が国安全保障上対等、否、日米同盟を極めて重視するという規定路線を司法が引いてしまったともいえるでしょう。
その後、2008年~2013年にかけて、米国の機密文書が公開されると、当該事件の主任裁判官である田中耕太郎裁判官が、当時のダグラス・マッカーサー2世駐日アメリカ大使と2回、レンハート主席公使と1回面会し、裁判の日程、訴訟指揮の方針、同僚である14名の最高裁裁判官たちの評議の内容、予測される判決の内容等の裁判情報をアメリカ側にリークしていたことがわかりました。
こんなの当時わかっていれば弾劾食らうくらいの大事件ですが、歴史の闇に葬られていたのです。
…ということで、砂川事件というと上記の田中耕太郎スキャンダルを中心に、田中耕太郎という「主題」ばかりが着目されますが、私が着目したのは、同じ最高裁判事で砂川事件の多数意見をドラフトした入江俊郎です。
入江は、もともと憲法制定当時の1946年3月に、憲法を国民投票にかけるべきだと主張し斥けられ、また、その後も解散権の所在について日本国憲法には不備がある点等々、憲法の正統性を再度憲法改正を通じて問い直すべきだという考えを随所で公にしていました。そして、入江が一番研究に力を入れていたのが「統治行為論」なのです。
それが具現化するのが、解散権の有効性を憲法上争った(正確には歳費等)、「苫米地事件」です。この判決でも、入江の影響が強く見られます。内容は、砂川よりも純粋な(一見明白性を問わない)統治行為論が語られ、解散権の有効性という高度に政治性を有する国家行為は裁判所の審査の外にあると判示します。その判決の最後は「最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである」と結ぶのです。
この文脈で、入江の主題が田中と違うのは、田中が司法の自制であったのに対し、入江は三権分立のどのカテゴリーでも判断しきれないものは、国民にすべて留保されているはずだ、という「主権者の覚醒」をその主題に内在させていることです。
平和条約を締結した日本がまだ純然たる独立国家ではなかったという点も砂川事件入江補足意見では指摘していることや、憲法制定直後の国民投票の提案を見ても、まだまだ定着せず、可塑性に富んでいた日本国憲法、そしてその9条や違憲審査制については、主権者こそが憲法改正議論の中で確定させていくべきだという通奏低音が流れているのです。
したがって、入江の主題から統治行為論を語るときは、同時に”主権者の起動”がセットであり、司法審査しない裁判所を批判するだけでなく、これら問題に向き合ってこなかった我々主権者の胸をもチクッと刺すのです。
入江の主題は、「憲法の未完性」をそのコアで見抜いていたのです。
山本龍彦先生の主権者の3段階の議論も紹介しましたが、我々主権者が覚醒し、起動しなければ、憲法の「余白」は権力(政治、官僚、司法)による「横取り」が横行します。
我々は憲法議論を、この憲法が完璧なものだ?押し付けられたものだ?の二元論に回収しすぎたために、ずっと主権を横取りされてきたのではないでしょうか?
政治家や政党が、国民が求めていないから憲法議論をしない、と言い切るのも、火事場泥棒的に改憲論議をするのも、どちらも主権の横取りに違いありません。
統治行為はもう克服され、葬られるべき理論だと思います。ただ、我々は今まで統治行為というときに、田中耕太郎の主題を変奏させすぎてきた。それは、日米同盟の極端な重視であり、田中が庶民の声やジャーナリズムを「雑音」と公言していた価値観にみる権威主義です。
また、アメリカへの情報提供という「司法の自死」ともいうべき「憲法の番人」を自壊させた田中の行動もその田中=砂川主題の一つです。
この変奏の極致が、安保法制での集団的自衛権合憲論への統治行為論の援用と、秘密文書公開後にされた砂川事件の再審請求の門前払いです。結局2015年以降も、この国は田中耕太郎の主題を変奏し続けている。
きっと今後も、緊急事態や憲法53条の問題等々で「統治行為」は語られるかもしれません。
しかし、そのときに我々は「主権者を起動せよ」という入江の声を聴かねばなりません。
入江が苫米地で「主権者の政治的判断」に委ねると書き、砂川多数意見では「政治的批判」と書き、自身の補足意見ではまたあえて「政治的判断」と書いたのは、私は「政治的判断」という言葉が入江本来のワーディングであり、これは憲法(改正)議論のレベルで論じるべきとする、憲法の”未完性”の主題を見ずにはいられません。
いい加減、主権横取りされるのやめにしませんか、主権者は、あなたです。
是非、ブルーマンデーを吹き飛ばすべく、ご覧ください!
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